エッセイ

筆誤からみえた二百年前の言語調査の現場

池田 巧

 清の乾隆年間に編纂された『西番譯語』という一連の資料がある。清朝が版図内の諸民族を把握するために行った一種のアンケート調査による報告書で、北京の故宮博物院に所蔵される9種類の写本は、分布地の異なる4種類のチベット語方言、および白馬語、ギャロン語、リュズ語、トス語といった西南中国のチベット系少数民族語の語彙を記録したものである。同類の写本は、京都大学や大谷大学にも数種類が所蔵されており、本によっては単語ごとに界線を引いて漢語の語彙項目を印刷した版本に、手書きで現地のことばを記入したタイプのものがあって、これがオリジナルの調査ノートに近いと考えられている。故宮所蔵の写本には界線は無く、漢語の語彙項目、現地語の音写漢字、チベット文字のすべてがとてもきれいに筆写されている。宮廷に収めるにあたり、丁寧に清書した写本を作成したのであろう。

 宮中に献上されたからには、これこそが数ある写本のなかでも「完成品」なのだろうと予想していたのだが、閲覧してみると、予想を覆す事実がいくつもあった。写字生は達筆であり、チベット字の書きかたにも通じていたけれども、チベット語あるいはチベット文字で書かれた民族語はあまり理解していなかったらしい。チベット語を理解しているのであればあり得ない、あるいは見過ごすはずのないような綴り字の誤りが散見するからである。もし清書を作成する段階で現地語に通じた者の校閲を経たならば、このような誤りだらけの写本を宮廷に献上することはなかったはずだ。

チベット語方言の記録の場合には、チベット文語との対応関係が明らかな語が多いので、語の同定がしやすいが、それ以外の現地語については、チベット系の言語とはいえ、語の同定は容易ではない。各本の前書きにはその言語がどのあたりで話されているかという地理情報の記載があるものの、行政の統治範囲の地名を列挙しているにすぎず、記録された言語がそのうちのどこの方言なのかを特定することは困難である。うまく現地語の話し手の協力が得られたとしても、違う方言や古いことばが書かれていたとすれば、どんな語形を記録したものか、判断に苦しむ場合が少なくない。ましてや記録に誤りが含まれているとなると、困難はさらに大きくなる。

 「ギャロン訳語」の記録を見てみると、語彙項目の「骨」にあたる現地語の発音を漢字で「殺又」と音写し、チベット文字では sharu と表記されていた(便宜上チベット文字はローマ字に置き換えて示す)。両者を対照すれば明らかに音写字の「又」は「入」の書き損じと判断できる。現代ギャロン語方言では「骨」は [ ʃɐ rə ] シャ ル のように発音する。このような軽微な誤字ならまだわかりやすい。しかしおそらくは通訳を介して行われたであろう最初のインタビュー調査の段階で、質問者と回答者との間で誤解が生じていたと思しき誤例もある。

 「甜」の項目を見ると、漢字音写は「各敏」、チベット字では ’di meng と綴られている。まずこの不一致でどちらかに筆写上の誤りがあることは確実。しかも現代のギャロン語では「甘い」は [ kə cçhi ] カ・チヒィのような発音で、記録とは全く対応しない。これは漢字音写から判断するに、「甘い」ではなくギャロン語の [ kə mjɐm ] カ・ミャン「おいしい」を記録しており、チベット字の綴りは字形の類似から g を ’d に見誤ったと考えられる。もしも文献上の記載を信頼してフィールド調査の検証を経ていなければ、清代のギャロン語では「甘い」は「各敏」ガマン、あるいは ’di meng ンディマン と言っていた、と歴史的に誤った「復元」がなされていたかも知れない。(ただし当時記録された現地語の方言で「甘い」と「おいしい」という語を区別していなかった可能性は残る。)

 また「綵絹」の項目をみると、音写漢字では「達兒底更票」、チベット字では da ’i ki khyar と記録してあった。いずれも現代ギャロン語の「あやぎぬ」とは全く対応しない。チベット字の綴りにも誤りが含まれているに違いなく、意味不明。「絹」とか色彩関係で、似た発音の語は無いかとあれこれ調べたり、現地語の話し手に何人か訊ねてみたりしたがサッパリわからない。やがて音写漢字の「達兒底更票」を口の中で何度も唱えていた現地語の研究協力者が、これはきっとダルディ(帽子)・ケンピョル(キレイな)「キレイな帽子」と書いたんだ、チベット字の綴りは正しくは *ta rti ki phyar に違いない、と気がついた。想像するに、質問者は帽子に綾絹が縫い付けられた部分を差して、これは何というのかと訊ねたのであろう。

 最後に極め付きの誤例をひとつ。語彙項目の「請」に対応する現地語は「達辟」と音写され、チベット字では ta phe と綴られていた。記録された語音が一致しているので誤記はなさそうだが、現代ギャロン語で「お願いする/招待する」は ka sgor カ スゴルと言い、全く対応しない。現地語で [ tɑ phɐ ]タ パというは、「客人」のことだという。

 ああそうか、中国語でそんなふうに質問をして誤解されたのか...思わず笑いがこみ上げた。言語調査では、この種の誤解はいつでも起こりうる。

池田 巧

’93年、東京大学人文科学研究科博士課程単位取得。山梨県立女子短期大学、立教大学を経て、現在、京都大学人文科学研究所教授。共著に「活きている文化遺産デルゲバルカン」(朝日書店)など。

康定の至高のメニュー

池田 巧

 四川省の山間部に住むチベット人の一部は、その地域だけで通用する独特のことばを話す。中国語では「地角話〔ディージアオホア〕」(土地のことば)と呼んでいる。地角話は、家庭と村落内部のプライベートな場面で使う話しことばであり、他地域のチベット人との間では、チベット語のカム方言か漢語の四川方言を使うため、「地角話」はその土地の人にしかわからない変わった方言だと思われて、実体も明らかにされないまま今世紀まで伝承されて来た。1980年代になってようやく「地角話」の大部分は、それぞれ相互に理解の困難な独立した言語であって、チベット語の方言ではないということが少しずつ判明してきた。四川省の西側の山岳地帯には、こうしたチベット系の少数言語が、十数種類も話されている。そのうちのひとつ、ミニヤコンカという山の麓に住んでいるひとびとが話すムニャ語を主な研究対象として、10年以上にわたって調査を続けてきた。ちなみにミニヤコンカのミニヤは、ムニャという地域名に由来し、コンカはチベット語で雪山、訳すなら「ムニャの雪山」くらいの意味である。

 数年前の8月初旬。言語調査の拠点にしている康定(カンディン)の街に着くと、さっそくムニャ語とリュズ語の発話協力者の友人たちが歓待してくれた。言語調査というのは、微に入り細を穿った質問攻めなので、いわば精神的な拷問みたいなものだが、現地の友人たちは、自分たちの地域文化に誇りを持ち、それに興味を持って毎年夏にやってくる外国人を歓迎してどんな質問にも辛抱強く丁寧に回答してくださるのは、ほんとうにありがたい。

まずは歓迎の夕食会をするので、街いちばんの高級ホテル、情歌酒店に席を取ったので来いという。あの「康定情歌」は、この街に伝わる民謡で、それに因んで命名されたホテルである。真新しい中国式の個室に通されると、研究協力者のおっさんふたりと、その友人数人が待っていた。こちらが日本の友人の池田だよ、と紹介されたあとで、「日本人は松茸が好きだからな」と、特に注文しておいてくれたという、油の浮いた煮汁タップリの、いわば「松茸と豚の角煮」のような料理が運ばれて来た。「日本では松茸は高いんだろ、ここは産地だから遠慮せずにたくさん食べていけよ」とばかりに、大皿が目の前に置かれた。松茸の油炒め、あるいはコッテリとした脂身とともに煮込んだ松茸を召し上がったことはあるだろうか。その風味はひとことでいうなら、信じられないくらいに臭くて不味い。現地の人のなかには「なんで日本人は靴下のニオイ(!)がするキノコを好むのか」と訝る声もあるくらいである。松茸なんか食わなくともほかに旨いキノコがいくらでもあるのに、なんでわざわざこんなものを、という意見には、全面的に賛成だ。松茸は油と相性が悪く、イヤな酸味が強く出てしまうので、中華料理には合わないキノコなのだ。とはいえ現地での換金農産物の代表といえば、何と言っても松茸で、近隣の山に入れば、青崗樹(ナラガシワ)の広葉樹林(松林ではない!)で大量に穫れる。農民は品質のよいものを選別して地元の業者に買い取ってもらい、残りを市場で売る。業者はそのほとんどを日本への輸出に卸すから、「日本人は松茸が大好き」という事実は、四川省と雲南省のチベット人の間では常識中の常識であり、彼らの生活の支えとなっている。

 日本人が「生魚片」が大好きだ、ということもよく知られている。チベット人は魚を食べない。チベットのような厳しい自然環境のなかで生きていくには、人は動物の生命を奪って食料としなくてはならない罪深い存在である。その事実を認めたうえで、もし牛を一頭屠るなら、たくさんの人の生命を維持できるけれど、魚を食べるなら、人ひとりが満腹するだけでもたくさんの生命を奪わなくてはならない。だからチベット人は魚を食わない、というのである。それだけに日本人が生の魚肉を食うことは、同じ仏教徒だという文化的共通性があるからこそ、チベット人の間でよけいに印象に残るのだろう。また漢民族は肉野菜を問わず、生の食品を徹底して嫌うが、チベット人は半生の乾燥肉などを好んで食べる習慣があることも、彼らの印象に残るもうひとつの原因なのかも知れない。

 歓迎会では松茸の煮物に続いて、四川のチベット人が好む辣味の効いた炒めものがいくつか続いたあと、最後に巨大な「舟盛り」が現れた。よくパーティーなどで見かけるあの白木の和舟に氷が満載してある。氷の上には中国でよく見るサーモンではなく、薄めに切った旨そうなマグロの赤身が一面に並べてあった。やや凍って表面に白く霜がかかっているものあるところを見ると、冷凍をスライスしたものらしく、ルイベに近いのだろうか? 船尾には醤油の小皿に緑のワサビも添えてある。誰かが「生牦牛肉!」と声をあげた。なんと並べられてあったのはマグロではなく、ヤク肉のルイベ(!)だった。

「これは日本人のやりかたに倣った料理だ。「生魚片」はこうやって食べるんだろ?」「ええ、まあ...それはそのとおりですけど...」目の前にあるのは「生肉片」である。これを食ったら確実にヤバいな、と思った。さっき通って来た道の途中に、解体されたヤクの頭が大八車(!)の荷台に載せられ、だらりと舌を垂らして虚ろな眼をこちらに向けていたのが頭に浮かぶ。たかったハエを肉屋が切り取ったヤクのシッポで追っていた。が、目の前の料理は日本の友人を歓待するために大奮発して注文したものに違いない。泣きそうになった。まさか食中毒と寄生虫が怖いから食いません、なんてとても言える状況ではない。じつは以前、やはり東チベットの田舎町の友人宅で出された昼食─なかには明らかに昨夜の残りを暖め直したものが含まれていて、ハエを追いながらいただいた手料理─に当たって、真夜中に病院へ救急搬送されるほどに酷く苦しんだ経験があり、その苦い思い出が頭をよぎる。

 引きつった表情を覚られぬように意を決して、箸で一切れ摘み、わさび醤油をつけて味わってみた。氷の冷たさとワサビ醤油に引き立てられた牛肉の香ばしさが口いっぱいに広がる。肉の感触は、ほどよく脂ののった高級な中トロの柔らかさ。絶品だった。死ぬほど旨い!とはまさしくこのことである。融けないうちに、と勧められるままに、舟盛りの半分くらいを堪能したが、文字通りそして予想通り、翌日から死ぬ目にあいかけ、回復までに5日ほど苦しむことになった。それでも軽症で済んだのは、高級ホテルの衛生的な厨房(と思いたい)で新鮮な肉(!)を冷凍し、調理してあったからだろう。現地の人はもちろん平気、どころかこれぞ至高の料理にちがいない。この味には海原雄山も唸るはずだ。同時に日本に来た外国人が初めて生魚を口にするときの気持ちがわかる気がした。それにしても、あんな旨いものはもう二度と食べられないだろうと思う。

 今年の夏もありがたいことに現地のおっさんたちは、変らず歓迎してくれ、自宅で夕食に招待してくれた。やれやれ、情歌酒店ぢゃないぞ、と安心したが、お宅を訪ねると「お前のために用意しておいたんだ」とあの松茸の煮込みを大量に御馳走してくれたのだった。

池田 巧

’93年、東京大学人文科学研究科博士課程単位取得。山梨県立女子短期大学、立教大学を経て、現在、京都大学人文科学研究所教授。共著に「活きている文化遺産デルゲバルカン」(朝日書店)など。